日曜日に、わたしは恋人と別れた。
わたしがその元恋人のことを好きだったのかといえば、そんなこともない。顔が好みというのではなく、性格が好きだというわけでもない。愛情が湧くわけでもなかった。もう、惰性のようにして付き合っていたというのが本当だろう。
元恋人の方も、わたしには愛想をつかしていたのか、義理で受けたという見合いの相手と随分親しくなったという噂だった。
わたしたちは、別れるべくして別れたのだということだろう。
しかし、別れるにしても別れ方というものはあったと思う。
何も、休日(日曜日)の昼間に、街中のファーストフード店のど真ん中で言い争いを始めなくても良かったのではないかと思う。
デートの行き先について話をしていたのが、わたしの性格の話になり、見合い相手の性格の話になり、見合い相手とわたしとの違いの話になり・・・あとは泥仕合だった。
わたしは元恋人から贈られた指輪を置くと、店を立ち去った。
元恋人とは、それきり連絡を取っていない。向こうからの連絡も拒否しているし、それでいいのだろう。
ところがその直後に、わたしは自分の勤務する学校の生徒と付き合うことになった。
大野達也というその生徒とは、その数日前に知り合った。
なかなか大人びていて、涼しげな顔立ちをしている。一言で言えば、好みだった。
それに、廊下でぶつかったときに書類を拾ってくれたり、元恋人と最後のケンカをしたわたしを心配してくれたりと、なかなかいいところもある。
・・・この子と付き合うのも、悪くないな。
そう思ったわたしは、その日のうちに交際を申し込み、彼はそれを受け入れてくれた。
そして、わたしと彼の付き合いが始まったのである。
とはいえ、彼との付き合いはなかなか思い通りには進まない。それは、その日のうちに分かった。
たとえば、一番最初に手をつなごうとして、手を差し出したとき、
「わわっ」
と手を引っ込められてしまったのだ。
意外な反応に驚いて訳を尋ねると、
「女の人と手をつなぐなんて初めてだし・・・」
などという。
いざ手をつないで一緒に歩いても、しばらく経つとすぐに、わたしと彼との間に距離ができる。
わたしが寄っていっても、また少し離れる。
なんでも、『刺激が強すぎる』らしい。
高校生というのは、こんなに『ないーぶ』なのか、と思ったりもした。というのは、彼くらいの歳の男と付き合うのは初めてだったので。
わたし自身の相手は、大学生だったり、会社員だったり、とにかく年上や同級生が多かった。しかも、随分この手のことに慣れた相手が多くて、なんでもリードされるばかりだった気がする。
これまでの自分の恋愛とは、違うやり方で行かないとダメだな。そう思った。
結局、付き合うことを決めたその日は、街を一緒に歩いた程度で彼と別れた。
「えっと、じゃあ、先生、これで・・・」
「うん。その前に、だ」
「?」
「達也君。これからは、二人きりのときはわたしのことを『理恵』と呼んでほしい」
「理恵・・・ですか?」
「できれば敬語もなしで」
「あ・・・はい・・・うん」
「その代わり、わたしも君のことは『達也』と呼ぶことにする。構わないか?」
「は・・・、うん、いいよ」
慣れない喋り方に戸惑いながらも、彼はそう言ってくれた。
照れた笑顔が、可愛らしかった。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「あ・・・うん。
理恵」
「何だ?」
「理恵も、気をつけて。今日は、・・・凄く、楽しかった。
また明日、学校で」
そう言って、達也は微笑んだ。
その笑顔に、思わず見とれてしまう。
「理恵?」
「ん・・・あ、ああ・・・また、明日、な」
「うん」
その日は、このようにして終わった。
達也は、思った以上に初心な男の子のようだ。
だけど彼と付き合うのは、きっと楽しいだろう。
わたしはその日、そう確信した。
ところが、その確信は、翌日にはグラグラと揺れることになる。
翌日、月曜日。達也は、朝になっても昼になっても、保健室に顔を見せにこなかった。
別に、彼に会うことを期待していたわけではないが、わたしには不安があった。
昨日、わたしは彼に随分強く交際してほしいと迫った。だから、その勢いで彼が交際をOKした可能性だってある。
彼が、一日明けてよく考え直してみたらやっぱり交際をOKしたのは軽率でした、と言い出さないか。それが不安だった。
放課後になってもまだ姿を見せない達也。わたしは不安を募らせていった。
よく考えてみれば、わたしは社会人になって2年目だ。他の教師よりは若いといっても、高校生だらけのこの学校の中で、年増と扱われてもしょうがない。
男というのは、一般的に、自分より若い女を好きなように仕込むのが好きだ。
男は、女の初恋や処女を好むという。女の一生にたった一度しかないものに『証』を残し、自分好みに染め上げられるということが、男の征服欲を刺激するのだろう。
わたし自身、年上と付き合うことが結構あったが、今までの元彼たちだって、わたしが自分より若いからつきあっていたのではないか。
まあ、わたし自身は誰かに染められたり、誰かに仕込まれたりというのが好きではない。だから、そういう連中とはうまく行かなかったのかもしれない。
現に、今までのわたしの恋愛は、相手から振られて終わるというのがお決まりのパターンだった。
そうだな。
よくよく考えてみると、わたしは恋愛に向かないのかもしれないな。
こんな言葉遣いだし。髪はショートカットが好きだし。
男っていうのは、いつの時代も女性らしい女性が好きだというし。
わたしなんて・・・全然女らしくない女だしな。
わたしは物思いにふけりながら、いつの間にか、コクリ、コクリと椅子に座って舟をこいでいた。
そして、ふと目覚めると、わたしはベッドに寝かされていた。
「あ、先生、目が覚めたんだ」
そして、ベッドの横には、達也君が座っていた。
「・・・君か。わたしをベッドに運んだのは」
ベッドで寝た記憶はない。誰かが運んだのだろう。
「はい。寝不足なんですか?」
「そういうことはないと思うんだがな・・・つい、眠ってしまった」
「そうですか」
彼は屈託のない笑顔を浮かべていた。
わたしは、不安を押し殺して、どうして彼が放課後まで顔を見せなかったのか、訊いてみることにした。
「なあ」
「はい」
「どうして今日は、放課後まで来てくれなかったんだ?」
「ええと・・・その、来づらかったというか」
「そうか」
わたしがそう言うと、しばらく彼は押し黙っていた。
「やっぱり、嫌か、わたしと付き合うというのは」
「え?」
「来づらかったんだろう? わたしと付き合うのを後悔して、どうやって断ろうかと考えていたんじゃないのか?」
「ああ・・・そういう意味じゃないです」
「本当か?」
わたしは疑り深く訊いた。
「だったらなんで、来づらかったんだ」
「そりゃあ、急に付き合うことになったら、恥ずかしくありませんか」
「恥ずかしい? なんだそれは?」
彼の言葉が意外だったので、思わず聞き返す。
「だって、付き合うことになったら、ちょっと恥ずかしいって・・・その、思ったりするでしょう?」
「少なくとも、君はそう思うわけか?」
「まあ、そうですが」
「不思議な感情だな。わたしにはそういうのはないんだが」
「だって、先生は恋愛経験いっぱいあるんでしょう? だからじゃないんですか」
「ふうん・・・すると何か? 経験があまりないと恥ずかしいと思うもので、経験があれば慣れるっていうものなのか」
「そう、思います。よくわかりませんけど」
達也は、頭をかきながら答える。
「・・・はあ、わたしには残念ながらそういうのは一度もなかったな」
わたしも何と言っていいのかわからなかったので、そう答えた。
わたしにはあまり理解できないことだが、人は、付き合いを始めると相手に会うのが恥ずかしいと思ったりするものらしい。
これまでわたしには、そんな経験はなかった。付き合いを始めれば、楽しいし、嬉しくもなる。だけど、相手に会うのが恥ずかしいとか、そんなことはなかった。
わたしはやっぱり、人からズレているのかな。
こんなことを悩んでもしょうがないが、そんなことを思った。
わたしは一通り考えをめぐらせた後、改めて彼に質問した。
何気ないように。だけど、一種真剣な気持ちで。
「ええと、じゃあ、わたしと付き合うのは、問題ないんだな?」
「はい」
彼は、その問いに対して、力強く答えた。
少し顔が赤いのは、どうやら、照れているらしい。
いくらわたしでも、なぜ照れているのか、さすがにそれはわかった。
何しろ、いま、わたしの顔も赤くなっているに違いないから。
「そうか、それはよかった」
彼の返事を聞いて、わたしの心の中に、安堵が広がった。
「ところで、まだ訊きたいことがあるんだが」
「何ですか?」
「その言葉遣いと、わたしの呼び方だ。二人きりのときは、敬語は抜きで、理恵と呼ぶんじゃなかったのか? ・・・まあ、呼びにくいなら別に構わないが」
「ああ、すみません。先生が白衣だったもので、ちょっと呼びづらくて」
「白衣? はあ、白衣だと先生っぽいのか」
「そんな感じです」
わたしは白衣を脱いで、脱いだ白衣を椅子にかけた。
「これでいいのか?」
「あー・・・、・・・、うん、何とか」
達也は、口をもごもごさせて答えた。
「無理してるんじゃないのか?」
わたしが笑いながら尋ねると、
「べ、別にそんなんじゃあり・・・そんなんじゃないよ。理恵。ちょっと慣れてないだけだと思う。
僕だって、付き合う相手に敬語使うとか、おかしいと思うから、ちょっとづつ慣らしてくって」
という心地よい返事が返ってきた。
「そ、そうか。じゃあ、がんばって慣らしていってくれ。
あと、もう一つだけいいか?」
わたしは、先ほど眠る前に考えていたことを尋ねてみようと思った。
「わたしみたいに女らしくない女が彼女でもいいのか?」
達也はこの質問を聞いて、しばらく黙っていた。
「やっぱり、女らしくないのは嫌か?」
わたしが重ねて訊く。
彼は首を振った。
「いや、理恵は、その、十分女らしいと思うよ、うん」
彼はそう答えた。
「おい、お世辞を言わなくてもいいんだぞ」
「いや、お世辞じゃなくって。
年上の人にこういうこと言っても喜ばれないかもしれないけど、理恵って、すっごく可愛いから。背が低いし、顔は童顔だし、その・・・スレンダーなわりに胸おっきいし」
「む、胸?」
ああ。そういえば、これまでの男も胸については褒めてくれてたかな。男によっちゃあ、「胸だけは女だな」とかホザいていたのもいたが。・・・付き合っている最中は随分傷ついたが、今思えば腹が立つな。
「胸のこと、気に障った? やっぱり、女の人はそういうの・・・」
彼が心配そうに訊いた。
「ああ、いや、わたしが言い出したことだしな。それと、かわいい、か・・・そんなことは初めて言われたな」
「これまで一度も言われたことはない?」
「親になら言われたことがあるがな。他人からは初めてだ」
「そう? 理恵のファン、結構生徒にいるみたいだけど。たまに、理恵に会いたくて仮病で来てる男子生徒もいるって聞くし」
「おい、冗談はよせ」
「いや、冗談言ってる気はないけど」
「そりゃあ、仮病みたいな生徒は来てるけど、わたしみたいなのが目当てなわけないだろう。いくら付き合いだしたからって、年上をからかうもんじゃない」
「・・・冗談じゃないのに」
彼はその日、不服そうにして帰っていった。
ちなみに、その翌日。
仮病でやってきたとみえる男子生徒の一人を捕まえて、訊いてみた。
この生徒は、よく保健室にやってきていて、顔なじみのようになっている。
わたしは黙っているが、あまりいいことだとは思っていない。
「ねえ」
「な、なんですか?」
さっきからわたしのことをチラチラ見ている男子生徒は、わたしに声をかけられて、上ずった口調で返事をした。
「あなた、わたしが目当てで保健室に来ているの?」
わたしはよそ行きの、丁寧な言葉遣いで訊いてみた。
「そ、そそそ、そんなわけないでしょう? ていうか、マジで体調悪いんですって」
男子生徒は、どもりながら答える。
「わたしが目当てじゃないのね?」
「ち、ちちち、ち、ち、違います・・・」
ずい、と顔をよせて、迫力たっぷりにわたしが尋ねたせいか、男子生徒は顔を赤くした。
「うーん、そうよねえ。ちょっと、ひとり、奇特な生徒がわたしのことを可愛いとか言うのよ。自分では絶対そんなことないってわかってるんだけど」
「い、いえ、先生は『可愛い』でありますっ!」
件の男子生徒は、わたしの発言を途中でさえぎり、いきなり大声を上げた。
さすがにわたしもビクッとした。
「あー・・・わたしは『可愛い』のか?」
あまりにビックリしたので、言葉遣いが素に戻ってしまった。
「ハイッ、わたしの見立てでは、校内でも五指に入る可愛さでありますっ」
「ご、五指って・・・わたしは24歳だぞ、女子高生がウヨウヨいるこの学校で、五指なわけないだろうが」
「そんなことは、関係ないでありますっ、理恵ピョンは最高に可愛いでありますっ」
「そ、そうなのか」
保健室の外まで響くような声で力説された。
そのあまりの勢いに、わたしはひとまず頷かざるを得なかった・・・。
続編、保健室のレッスンはこちら。
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